カトリック高輪教会

歴代司祭の思い出

<ハクシャ神父><ボルジャー神父>


ハクシャ神父

1994年4月から2000年8月まで主任司祭

ハクシャ神父は主任司祭として豊四季教会から、ボルジャー神父は助任司祭として清瀬教会から、1994年に赴任しました。二人ともケリー神父と同じスカボロ会宣教師です。 ハクシャ神父は聖堂で一人静かに祈りを捧げ、主日の福音を黙想する姿がよく見られました。日曜学校の合宿では、朝ごはんに出たヤクルトをご飯にかけて食べて、「これは、美味しいよ!」と子供達を驚かせたそうです。

肝炎が悪化したため2000年8月カナダに帰国、翌年5月14日帰天

ボルジャー神父

1994年4月から1997年2月まで助任司祭

ボルジャー神父はハクシャ神父の良きパートナーでした。穏やかで慈愛深く、多くの人が心を癒されました。教会に来られない信徒に、いつも喜んでご聖体をもって行きました。もっとも愛した福音の一節は、「いちばん先になりたい者は、すべての者の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」でした。

1997年2月15日 高輪教会在任中に帰天

ハクシャ神父様・ボルジャー神父様の思い出

カトリック高輪教会は1959年に、スカボロ外国宣教会によって献堂されました。そして新しい地に信徒が集う場を開くという外国宣教会の一つの使命を果たした後、1979年東京教区に移管されました。

その後1994年に、同宣教会のフランシス・ハクシャ神父が豊四季教会から主任司祭として、ジョン・ボルジャー神父が清瀬教会から助任司祭として着任されました。
平日に聖堂を訪れると、ハクシャ神父様は祭壇右前の聖櫃前で、ボルジャー神父様は最後尾のベンチで祈っておられる姿を最初に思い出します。

両司祭共、ミサ典礼のこと、聖書講座・入門講座や結婚講座等、教会を訪れる方々への霊的指導に専念され、教会でミサに与かれないご病人や高齢者をしばしば訪問されました。一方で、教会の運営や活動等への信徒の積極的な参加を促しました。当時東京教区で始まった「聖体奉仕」「集会司式」の講習会に信徒が参加することを勧め、奉仕者を育て、すぐに信徒の聖体奉仕は始まりました。その数年後、ハクシャ神父様が初金のミサの日に急病の時、集会司式も1回行われました。

お二人とも質素な生活を旨とされていらっしゃいました。当時,信徒会館の3階の居室には、騒音と空気汚染の防止のために開閉できない窓があり、エアコンが完備されていましたが、暑い夏にも極力使用せずに過ごされていたことを後々知りました。エレベーターが設置されていないことは当時から信徒の間では問題になっていましたが、神父様方は、階段の上り下りの負担について一切おっしゃいませんでした。特に心臓の悪かったボルジャー神父様はお辛かったことと思います。

ボルジャー神父様は、1997年2月に帰天されましたが、その直前までご自分のことはさておき、近くのご病人のところに聖体を授けに行かれないことを非常に気にかけていらっしゃいました。

ハクシャ神父様は体調を崩されて、2000年の8月にカナダに帰国されました。

鉄とコンクリートがむき出されて寒々しく感じられた聖堂が、お二人の神父様が去られた後、温かい祈りの場となっていたことに気付きました。

私個人としては、苦しかった時に寄り添っていただいた両司祭を今でも忘れられず、そのうしろ姿からキリスト者として学ばせていただいたことに感謝しています。

ボルジャー神父様が帰天カードに選ばれた みことば

「いちばん先になりたい者は
すべての後になり,
すべての人に仕える者になりなさい。」  (マルコ 9:35)   

(2021年7月 藤田 洋子様)

   

ボルジャー神父様の思い出

ボルジャー神父様の思い出話がないかご相談を受けたのを機に、久しぶりにクリプトB室を訪ねハクシャ神父様とボルジャー神父様にお祈りを捧げて参りました。ボルジャー神父様が1997年2月に帰天されてから4半世紀が経とうとしています。途切れがちになっていた私の記憶を神父様が後押ししてくださったのでしょう。いくつかの光景が鮮やかによみがえってきました。

岩﨑神父様の後任として、1994年の4月に別の教会から主任、助任司祭として高輪教会に着任された2人の神父様。大きな声で話し、笑うハクシャ神父様をお支えするように、その横でいつもにこやかに微笑んでいらしたボルジャー神父様。私は眼鏡の奥の優しい慈愛に満ちたまなざしが大好きでした。

受洗してまだ数年しかたっていなかった私は、ボルジャー神父様の聖書講座を受講しておりました。毎週コピーしたたくさんのプリントを用意してくださいましたが、いつも袖口がほつれボロボロになったセーターを着ていらっしゃる神父様から、「清貧」の中で生き、宣教司牧に力を注いでおられるたたずまいが神に通ずるように思えてなりませんでした。

専門的に学んだ経験のない私ですが、ご縁あってオルガニストの一員に加えていただいていました。駆け出しでまだまだ余裕のなかった私が、なんとかミサで弾き終えた時に、何度となく、静かに歩み寄って「とても良かったですよ」と励ましてくださったボルジャー神父様。その温かいお心遣いは緊張していた私の心の灯となり豊かに癒されたことを懐かしく思い出しております。

心臓のご病気で入院された、と伺い広尾の日赤医療センターにお見舞いに行った時のこと。ベッドに横たわり昏々と眠っておられる神父様の弱りはてたお姿に接し、私は耐えられず病室から飛び出してしまいました。病室で居合わせた信徒の方に励まされ、少し落ち着いてから戻り、その方と共に長く伸びた足の爪を切って差し上げ、センターを後にしました。

それからしばらくしてボルジャー神父様は天に召されました。高輪にいらしてたった3年の短い期間でしたが、その出会いに感謝し、いただいた数々のお恵み、優しいお心遣いは私にとって忘れられない思い出となっております。

(2021年7月 澤本 知勢子様)


   

ハクシャ神父様・ボルジャー神父様の思い出

思い出すのは目尻の下がった優しいお顔。ハクシャ神父様はいつも笑顔で、子供達やリーダーの活動を見守ってくださいました。

高輪教会に赴任された時、既にお歳を召しておられたのにも関わらず、日曜学校サマーキャンプに同行してくださいました。

山登りなどハードな活動の間は宿で休養されていましたが、あれ?お姿が見えないなと思うと、自然の中を優雅に散策なさったり、時にはお一人で山の喫茶店でコーヒーを楽しんでおられたことも!そのお姿は微笑ましく、猛暑の中でご一緒出来ただけでも感謝の気持ちでいっぱいでした。

せっかくの野外活動だから「山の中で祈りを捧げましょう!」と自然とふれあいながらのミサをすすめてくださいました。鳥や虫の声と共に神父様の優しいお声が、とても懐かしく感じられます。

野球がお好きで、大リーグ談義に花を咲かせたリーダーも!キャンプファイヤーや肝試しなどのイベントでは、神父様の表情は少し硬く、恐る恐るご覧になっておられました。私達がつい盛り上がってしまうと「花火とてもあぶな~い」「リーダーのおばけ、怖すぎ~る~」とハクシャ神父様の独特な話し方で注意されたことなど、今では素敵な思い出です。

私達が「忙しくて落ち着いて祈る時間がありません」と言うと「大丈夫で~す。あなた達の活動は祈りで~す。神様は見ておられま~す。」と優しい言葉で包み、学生リーダー達にいつも安らぎを与えてくださいました。日本語がどことなくぎこちないところもまた、ハクシャ神父様の愛すべきお人柄の一つだと思います。

子供達のことが大好きだった神父様、「バザーで一緒にビンゴを楽しんでくれた姿が印象的です」と、当時子供だった方からコメントを貰いました。

ボルジャー神父様とは粘土制作で「神の小羊」を一緒に作ったことを思い出します。大変物静かでそっと子供達を見守ってくださっていました。

外国人の神父様お二人が日本の子供達や若者に、たくさんのお祈りと愛を与えてくださいました。素敵な思い出を本当にありがとうございました。

(2021年7月 川原恵理子様(旧姓 花田))
日曜学校リーダー(1990年〜2000年)



敬老会での ボルジャー神父(左)とハクシャ神父