カトリック高輪教会

歴代司祭の思い出

<岩橋 淳一 神父>


1979年4月から1984年4月主任司祭

スカボロ外国宣教会から東京教区に移管され高輪教会は、1979年4月に初めての邦人司祭岩橋神父を主任司祭に迎えました。新しい日曜学校をスタートし若者達が他教会からも集まってくるようになり、1981年の教皇ヨハネ・パウロ2世の来日をきっかけに青少年活動は一層活発になりました。広報誌「ざくろざか」も着任の年のクリスマスに創刊しました。1984年4月に高輪を離れるまで、「た・か・な・わソング」や1983年の江戸の殉教者祭で殉教者を讃える歌も作詞作曲して今に歌い継がれています。なかでも「ハレルヤ・クリスマス」は、作詞岩橋神父、作曲都倉俊一氏によるものです。
2014年10月24日 帰天

岩橋神父様の思い出

1979年。伝道館と呼ばれていた信徒会館の2階に岩橋神父様の執務室である主任司祭室がありました。
その扉はいつでもあいていいました。
岩橋神父様は、高輪教会が東京教区に移管されて初めて着任された教区の司祭でした。

ローマンカラーで、愛車のスカイラインGTに乗り、都内の複数のミッションスクールの授業に奔走し、小教区以外でもたくさんの役割をこなされていました。
タールを軽減する吸い口をつけてセブンスターを吸いながら執筆し、大きな声でおなかの底から笑い、こどもたちに「じゅんちゃん、じゅんちゃん」とよばれ、体をかがめて話を聞き、温かくて大きな手でずっしりと按手してくださいました。

いつもミッションに忠実で、突き動かされるように働いていらしたので、私たち若造も「何をしましょうか?」などとのんきに指示を待つことはできず、おのずと動いていたと記憶しています。

日本語が堪能でいらっしゃるのはもちろんでしたが、このことは、外国宣教会の神父様の言い回しに慣れていた私たちにとっては、意外と大きな衝撃で、普段の会話の中でも、あまりにストレートな表現に面食らっている大人たちを多く目にしたことも思い出されます。
教会学校は小学生を中心に、就学前のこどもたちのクラスと中学生のクラスを開設し、高校生にはリーダー講習、親世代には、父母会ができました。ミサの後の伝道館は一階も二階も離れのマリアンナの家も中庭も、いつもたくさんの人でごった返していました。教会活動を遠巻きにしがちなお父さん世代の心もしっかりつかんで、おのおの得意分野での奉仕が生かされて活気あふれる教会でした。広報誌「ざくろざか」が誕生。こどもたちは、主日のミサだけではなく、遠足、野外ミサ、サマーキャンプ、クリスマスパーティー、バザーなどで活躍するたくさんの大人を見て仲間と一緒に育っていきました。

テルテル坊主のような「淳ちゃんマーク」とともに思い出されるのは、岩橋神父様がデザインされた高輪教会のTシャツです。神父様が大事にしていらした「自然」と「こども」と「平和」をあわせたデザインで、ラテン語で、「主の平和がわたしたちとともに」と記されました。
こどもとともにささげるミサでは、神父様は祭壇の前に立ち、こどもたちに近づいて、いつも言葉キャッチボールのように聖書のメッセージを届けてくださいました。ミサは「うけるもの」ではなくて「あずかるもの」で、「対話だ」と実感したものでした。

城南ブロックの青年会の連絡会も復活し、静修会、江戸の殉教者記念祭フォークミサ企画などを行いお互いの教会訪問を頻繁に行うようになりました。そうして、80年夏の全国カトリック青年大会が長崎で行われたときには、東京教区の城南ブロックの青年団も結成し、城東、城西ブロックなどとも交流を深めながら参加することができました。
小教区にとどまらず、「ITE MISSA EST」という派遣の言葉そのままに、小さな信徒一人一人を祝福とともに日々の生活、社会に送り出してくださいました。

1980年の秋に、翌年の教皇様の来日が決まると、高輪教会には、教皇来日青年準備委員会の事務局が設置され、半年に満たない準備期間に東京教区白柳大司教様から企画準備を一任された、われらが親分の岩橋神父様をどうにかサポートし、青年らしいおもてなしを成功させようと教区の青年有志が時間、知恵を出し合って活動しました。

遠いバチカンのパパ様を尊敬する大好きなおじさんのようにお迎えすることができたのは、岩橋神父様とともにみんなで苦しみながらも必死に準備したおかげではなかったでしょうか?
神学生も常駐し、「召命」「叙階」も身近に経験することができたのも、岩橋神父様が教区の神学生の指導もお引き受けになったからです。

神父様が主任司祭でいらした5年余りは、高輪教会信徒にとって大きな革命的出来事の連続で、神様の呼びかけはいつも全く予期せぬときに、どうにも避けられないように降りかかることを体験させていただき、神様に信頼して乗り越えられないものはないということをたくさん経験できた時期でした。わたしにとっては、高校3年から、大学4年間そして就職までというまさに人生の大きな分岐点で信仰をはぐくむことができました。

上野教会の主任司祭でいらした2010年の暮れに不慮の事故に遭われ両手足の自由を奪われ、呼吸を確保するために声も失うという苦境の中でも、じっとベッドに横たわっていても、神様を近くに感じ、ご自分の使命を思いめぐらしていらしたと思います。1年たたずに声を取り戻されたときには、もう一度「羊飼いのうた」が聞きたいとおもったのですが、歌の発声は難しいんだよ。とおっしゃっていました。2014年10月24日に入院先で亡くなられましたが、わたしたちの心にともしてくださった光、「自然」「こども」「平和」をだいじにすること、そして、今にとどまらないで、「ITE MISSA EST」と踏み出していくことをもう一度思い出そうと思います。

(三溝 真季 様)