カトリック高輪教会

「ざくろざか」巻頭言バックナンバー一覧

Vol.123(2022年04月)「主の復活を信じること」(赤岩 聰 師)

「わたしの希望キリストは復活し…ともにたたえ
告げ知らせよう 主キリストは復活された」
復活の喜びのうちに、教会共同体は復活の8日間のミサの中で「復活の続唱」を歌います。復活祭を迎えて、「復活の続唱」を歌っても、「ご復活おめでとうございます」という挨拶をしていても、何となく心が晴れないのは、新型コロナウイルス感染症の影響で、世界規模で深刻さを増す社会的・経済的危機による閉塞感を感じるからだけではないでしょう。その原因は、この文章を書き終えた時点(※4月5日)では、まだ解決の糸口が全く見えないウクライナ情勢から来るものであります。
ロシアがウクライナヘの軍事侵攻を開始したことに対して、多くの人が衝撃を受けたことでしょう。何か悪い夢を見ているような印象を受けた人もいると思います。現代において、国際連合の常任理事国である大国が現実に軍事侵攻することなど考えていなかった人が多かったかもしれません。
しかし、この侵攻を受けて、「戦争に勝利はありません。あるのは敗北だけです。主が聖霊をおくり、戦争は人類の敗北であり、むしろ戦争自体に打ち勝つことが必要だと、わたしたちに理解させてくださるように」1と祈る教皇フランシスコは、兄弟愛と社会的友愛をテーマにした回勅『兄弟の皆さん』の中で、「戦争は過去の亡霊ではなく、たえず脅威であり続けています」2と警告し、「戦争は、一見したところ人道的、防衛的、予防的なあらゆる口実を建前にし、情報操作すら利用して、安易に選択されています」3を、まるで今回の侵攻に関して言及するかのように語っていました。
今回の軍事侵攻を通して、私たちに示されたことは、今まで当たり前のように享受していた平安な日々の生活は決して当たり前のものではなく、恵みとして与えられていたということです。教皇は、パンデミックを「嵐」に喩えて、「嵐はわたしたちの弱さを露わにし、偽りの薄っぺらな信頼を暴きます。そうした信頼のもとに、わたしたちは日常の予定、計画、習慣、優先事項を決めているのです…嵐はそれを見せつけます」4と述べていますが、今回のように「平和」を打ち壊すものを「嵐」に置き換えることもできるかもしれません。
そして、「平和は永久的に獲得されたものではなく、たえず建設されるべきものである」5を定義されているように、「平和」は一度、実現したらそれで完成するものではありません。現教皇は独特の語り口で、「聖霊の働きによって、わたしたちは異なる文化や宗教の人々とともに•平和を形づくる「職人」になることができます。平和は手で作るものです。平和の工場などありません。平和は、開かれた心で、毎日、手で作るものです」6と表現しています。平和が簡単に崩れ去っていく現実に直面している私たちキリスト者は、それでもなお、こうした呼びかけを通して、平和の実現のために絶えず祈り続け、働き続けるよう召されています。
主の復活を信じるとは、キリストの復活を通して示された神の力は、「すべてを、たとえそれが悪い出来事であっても、よいものに変え」7ることができ、そして、 「苦しみと死を『飛び越える』のではなく、深淵の中で道を切り開き、それらを過ぎ越すことで悪を善に変え」8、悪の根を断ち切る勝利をもたらすことができる ということを信じることでもあるでしょう。
高輪教会の皆さん、ご復活おめでとうございます。
復活の希望のうちに、平和のために祈り続け、働き続ける私たちでありますように。


高輪教会 主任司祭
  マリア・フランシスコ 赤岩 聰


1 2022年3月23日(水)、一般謁見の席で
2 教皇フランシスコ回勅『兄弟の皆さん』(2020年10月3日) p.256
3 同上、p.258
4 教皇フランシスコ『パンデミック後の選択』(カトリック中央協議会、2020年)、p.26
5 第ニバチカン公会議『現代世界憲章』p.78
6『教皇フランシスコ講話集2』(カトリック中央協議会、2015年)、pp.162-163
7 教皇フランシスコ『パンデミック後の選択』(カトリック中央協議会、2020年)、p.29
8 同上、p.37


Vol.122(2021年12月)「主の受肉の神秘」を祝うこと(赤岩 聰 師)

「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに滴ちていた」
(ヨハネ1・14)

福音記者ヨハネは、神のみ言葉が人となられた「受肉の神秘」をこのように語っています。使徒信条の中で、「主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ」と表現されている「受肉の神秘」に関しては、様々な説明がなされています。
第ニバチカン公会議の『現代世界憲章』22項に、「…人間本性が、破壊されることなくキリストの中に受け入れられたことにより、われわれにおいても人間本性は崇高な尊厳にまで高められた。なぜなら、神の子は受肉によって、ある意味で自分をすべての人間と一致させたからである。彼は人間の手で働き、人間の知性をもって考え、人間の意志に従って行動し、人間の心をもって愛した。彼は処女(おとめ)マリアから生まれ、真にわれわれの中の一人となり、罪を除いては、すべてにおいてわれわれと同じようであった」とあるように、神の子がご自身をすべての人間と一致させた「受肉の神秘」により、人間本性の尊厳が高められたことが示されています。
或る神学者は、この「受肉の神秘」に関して、次のような解釈をしています。「受肉の神秘によって、人間の人生は、たとえそれがどのようなものであっても、神が住まわれるに値するものであることが示された。このことは、私たちに大いなる希望をもたらす」と。つまり、私たち人間の現状がどのようなものであっても、神はともにおられ、決して見放されないということが、また、だからこそ一人ひとりの人間、及びその人生は尊く価値あるものだということが、「受肉の神秘」を通して示されているというのです。
さて、昨年に引き続き今年も、新型コロナウイルス感染症の影響で今後の見通しが立たず、希望が見えにくい状況の中で、主の降誕祭を迎えます。そうした中だからこそ、主の降誕を祝う意味を再確認することは大切だと思います。聖書が伝えているのは、希望の見えにくい人々の現実の生活、苦しみや困難に満ちた人生を、他人事のように遠くから眺めているのではなく、それらをともに担うことを引き受け、この世界に希望をもたらすために、「主」は人々のただ中にお生まれになったということです。
この「主の降誕」の出来事は私たち一人ひとりに与えられた贈り物だと言えますが、私たちキリスト者は、その贈り物を受け取っで満足して終わりとしてしまってはいけないでしょう。教皇フランシスコは、神はいかなる時も、人類によい種を蒔き続けておられていること、パンデミック下の不安の中にあっても、そうした神の招きに応えて、社会のインフラを支えるごく普通の人々が、自分のいのちを差し出すことで、他の人々の生活を支えていることに希望を見い出しつつ1、誰のことも他人事にせず、真に「わたしたち」を築くように強く呼びかけています2。「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」ことを受けて、私たち自身もまた、それぞれの場で、他の人に自分を差し出す愛に生きることで、周りの人に希望をもたらしていくように招かれているのだと思います。
主の降誕を祝う私たちキリスト者が、どのような状況にあっても、決して見捨てられることなく、ともにおられる主に信頼して、厳しい状況だからこそ、自分のことだけに目を向けずに、他の人たちに向かって希望の光を伝えていくという使命を果たしていくことが出来ますように、心を合わせて祈りましょう。まさに、私たち一人ひとりがその使命を果たせるように力づけ、励ますために、主は私たちの間にお生まれになったのですから。
高輪教会の皆さん、クリスマスおめでとうこざいます。そして、よいお年をお迎えください!

高輪教会 主任司祭
  マリア・フランシスコ 赤岩 聰


1 教皇フランシスコ回勅『兄弟の皆さん』(2020年10月3日) 54項、参照
2 同左35, 43項、参照


Vol.121(2021年09月)「聖ヨセフ年」にあたって ― 聖ヨセフの心で(赤岩 聰 師)

日本にとどまらず、世界規模で、新型コロナウイルス感染症の感染拡大が止まらない状況にあって、あらゆるレベルでの「家族の大切さ」というものが改めてクローズアップされてきています。カトリック教会において、今年2021年は、「家族」に関することを記念する年と重なっています。具体的には、福者ピオ九世による「聖ヨセフを普遍教会の保護者とする宣言」150周年を記念して、「聖ヨセフ年」(2020年12月8日~2021年12月8日)が発表されました。そして、家庭 に関する二つのシノドスを経て出された教皇フランシスコの使徒的勧告『愛のよろこび』の発布5周年を記念し、この勧告で為された考察を深めるための「『愛のよろこび』家庭年」(2021年3月19日~2022年6月26日)が聖家族の祝日に発表されました。さらに、今年から7月の第4日曜日を「祖父母と高齢者のための世界記念日」とすることも発表されました。
さて、「聖家族」とは、世界中のすべてのキリスト者が理想とする模範的な家族であると言えますが、イエスやマリアと比較すると、ヨセフがクローズアップされることが少ない傾向があることは否めません。この「聖ヨセフ年」が、聖ヨセフの生き方に学ぶ良い機会になるとよいと思います。
偉大な聖人である聖ヨセフヘの愛を深め、その執り成しを祈り、その徳と果断さに倣うように促すことを目的1とした使徒的書簡『父の心で』の中で、教皇フランシスコは、パンデミックの危機のただ中で、「どれほど多くの人が、毎日辛抱し、希望を奪い立たせ、パニックではなく共同責任の種を蒔くように心掛けていること…どれほど多くの人が祈り、犠牲をささげ、すべての人のために執り成しでいること」2かに着目して、「だれもが聖ヨセフ―目立たない人、普通で、物静かで、地味な姿の人―に、困難なときの執り成し手、支え手、導き手を見いだすはずです。聖ヨセフは、一見すると地味な、あるいは「二番手」にいる人だれもに、救いの歴史の中で、比類なき主役になる資質があることを思い出させてくれます」3を語りながら、聖ヨセフのように、日常的で、目立たない、隠れた存在に注目するように呼びかけておられます。
福音書が伝えているように、「恐れるな」という天使の言葉を信頼して、ヨセフは聖霊によって身籠もった許嫁のマリアを受け入れます4。しばしば、人生において、意味を理解できない出来事が起こりますが、私たちにありがちな最初の反応は、失望や反発です。しかし、ヨセフは、起きていることに場を空けるために自分自身の理屈を脇に置き、自分の目にどれほど不可解に映っているとしてもそれを受け入れ、その責任を引き受け、自分自身の歴史と和解させ、次の一歩を踏み出そうとするのです。5
神が助けてくださらないかのように見えることに対しても、神は見捨てているのではなく、私たち人間が計画し、考え出し、見つけるはずのものを信頼してくださっており6私たちの恐れ、もろさ、弱さを通してさえも神は働かれる7のだという確信こそが、聖ヨセフに見られる信仰のあり方なのです。
コロナ禍で、今後の見通しの立たない困難な時を過ごす私たちキリスト者一人ひとりが、老若男女を問わず、聖ヨセフの心をもって、聖ヨセフの生き方に倣って、希望を失うことなく、各々の家族の中で、また高輪教会共同体という家族の中で、更には人類共同体という家族の中で、今、この状況下で、進むべき道の方向性を見出し、それぞれに神から託された使命を誠実に果たしていくことができますように、聖ヨセフの執り成しを願って、ともに祈りましょう。

高輪教会 主任司祭
  マリア・フランシスコ 赤岩 聰


1 教皇フランシスコ使徒的書簡『父の心で』(カトリック中央協議会, p.31.)
(2020年4月12日)
2 同上, pp.8-9.
3 同上, p.9.
4マタイ1・18-25
5 同左, pp.17-18.
6 同左, p.22.
7 同左, p.14.


Vol.120(2021年04月)今、主の復活を祝うこと(赤岩 聰 師)

主のご復活おめでとうございます!
復活祭を迎えても、世界の至る所で猛威を振るっている新型コロナウイルス感染症の拡大が収束する兆しが見えてきません。多くの人びとが自問していることでしょう。「なぜ、こんなことが起きるのだろうか?」、「この危機の中、神はどこにおられるのか?」と。信仰者である私たちキリスト者も例外ではありません。こうした問いを発すること自体は悪いことではないでしょうし、問い続けることで祈りにつながっていくのかもしれません。しかしながら、私たちキリスト者は、こうした問いだけではなく、もう一つの問いをも発するべきだと思います。それは、起きてしまった「この出来事」、起きている「この出来事」を通して、神は何を私たちに語られ、何を求めておられるのかという問いです。
さて、新型コロナウイルスの感染拡大が止まらず、今後の見通しがまったく立たず、「不安」な状況の中、主の降誕祭を迎えますが、この「不安」と主の降誕祭のイメージとが釣り合わないと思われる方がおられるかもしれません。しかしながら、聖書が伝えているのは、「不安」を抱えた人々のただ中に「主」はお生まれになったということです。
アシジの聖フランシスコにインスピレーションを受けて、兄弟愛と社会的友愛をテーマにした回勅『Fratelli tutti』の中で、教皇フランシスコはパンデミックに関する先の問いの答えとなり得るものを幾つか提示しています。
パンデミック(pandemic)とは、ギリシア語の語源(「pan- (全て)」+「demos(人々)」)から派生した「全ての人々の」という意味を持つ言葉ですが、教皇は、新型コロナウイルスのパンデミックのような世界的な規模で起こっている悲劇が絶えず私たちの中に呼び覚ますのは、私たちは一つの世界共同体として、同じ舟に乗って航海しているようなものであり、誰かの問題は決して他人事ではなく、全員の問題であるという意識だとしています。そして、私たちは誰も一人では救われず、みなが一緒にでしか救われ得ないことを強調される教皇は、このパンデミックをはじめ、私たちに襲いかかるあらゆる悪に直面して、生活や社会をより良いものに変えていくために、個人主義を乗り越えて、一つの民として行動するように呼びかけます1
そして、感染症による危機の後に起こりうる最悪の反動は、以前にも増して消費主義の熱狂に陥ったり、新しい形の利己的な自己保護主義に陥ったりすること2であると注意を促す教皇は、「このパンデミックによって生じた苦しみ、不確かさ、恐れ、私たちの持つ限界への自覚といったものが、私たちの生活様式や人間関係、社会構造のあり方、そして何よりも、私たちが存在する意味について考え直すように招いています」3とパンデミック後の私たちが歩むべき方向性を示します。
また、オースティン・アイヴァリーという英国人記者との対談を基にした著書の中で、教皇フランシスコは、この危機に直面し、多くの人々は無力さを噛みしめ、恐れさえも持っているが、この危機から、無傷ではないにしても、より良く抜け出せる機会が存在していることに希望をおくべきだと強調しています4
思い起こせば、不条理の極みであると言えるイエスの十字架の出来事を通して、栄光ある復活が示されました。神は悪を通しても善を引き出される方です。そして、引き出された善は、悪よりもずっと大きく、より強いものです。復活を信じる私たちはそのことをもちろん信じているわけですが、信じるだけではなく、私たちキリスト者一人ひとりはそのことをそれぞれの言葉と行いを通して周りの人たちに示すように招かれていると言えるでしょう。
主の復活の希望の光に照らされて、このパンデミックの危機から良いものを引き出していくようにとの招きに喜びをもって応えようとする私たちでありますように。それこそが、主の復活を本当の意味で祝うことに他ならないのですから。

高輪教会 主任司祭
  マリア・フランシスコ 赤岩 聰


1 Cf. 教皇フランシスコ『Untemps pour change』,Flammarion, 2020, pp.153-154.
(2020年4月12日)
2 Cf. 教皇フランシスコ回勅『Fratellitutti』35項
3 教皇フランシスコ回勅『Fratelitutti』33項(私訳)
4 Cf. 教皇フランシスコ『Untemps pour change』,Flammarion, 2020, pp.11-29.


Vol.119(2020年12月)今、主の降誕を祝うことの意味(赤岩 聰 師)

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜ぴを告げる。今月ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている親飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(ルカ2・10-12)

この言葉は、主の降誕の夜半のミサの福音箇所の中で主の天使が羊飼いたちに語ったものです。今年の降誕祭は、例年とは異なる形でお祝いすることになります。クリスチャンが少数派で、キリスト教的な価値観が浸透していない日本の社会の中で、一般の人たちが教会を訪れ、ミサに参加する大きな機会が、この主の降誕のミサ(Christmas)であります。しかし、今年は、高輪教会所属の信者の方とご家族に限定させていただきました。

さて、新型コロナウイルスの感染拡大が止まらず、今後の見通しがまったく立たず、「不安」な状況の中、主の降誕祭を迎えますが、この「不安」と主の降誕祭のイメージとが釣り合わないと思われる方がおられるかもしれません。しかしながら、聖書が伝えているのは、「不安」を抱えた人々のただ中に「主」はお生まれになったということです。

具体的には、天使のお告げを受けたマリアは、まだ婚約中であり、当時、結婚前に子を産むということは非常に困難な状況に陥ることを意味しました。しかし、マリアは「不安」を乗り越え、神を信じ、希望を持って、「お言葉どおり、この身になりますように」とそのお告げを受け入れます。また、ヨセフは、許嫁のマリアに起こった出来事を知って「不安」に陥りますが、夢に現れた天使のお告げを受け、神の約束に勇気づけられ、マリアとともに歩む使命を引き受けます。そして、当時のイスラエルは、ローマ帝国の支配下にあり、政治的な争いが絶えず、不安定さに満ちた地域でありました。そんな「不安」に満ちた状況に生きていた人々のただ中に、神の子であるイエスはお生まれになったのです。

神は私たち人間の「不安」を取り除くという道を選ばれずに、私たち人間とその「不安」を共にするという道を選ばれました。「不安」に満ちたこの世界に神の子は生まれました。「不安」と直面しながら生きる私たちとともにおられるために。このことは私たちにとって、神の愛を示す、希望のしるしだと言えるでしょう。 教皇フランシスコは、「イエスの降誕は、不安と悲観主義を乗り越える、信頼と希望の祝い」であり、「神はこの世に産声を上げ、ご自分とともに歩む力をわたしたちに与えてくださいます。神はイエスをもって、わたしたちとともに歩んでくださいます」とイエスの誕生の意味を解き明かします。そして、「この夜の信仰からわたしたちが気づかされるのは、神はいないと思えるようなところであろうとも、必ずいてくださるということです」と、どんな状況にあっても希望を見出すように招かれます。

主の降誕を祝う私たちキリスト者一人ひとりが、このような厳しい状況だからこそ、「恐れるな」という天使の言葉と、闇に光を与えてくれる救い主の誕生に力づけられ、希望をもって歩み続けることが出来ますように、そして、光の見えにくい社会の中で、私たち自身がしるしとなって、キリスト者の持つ希望の光を周りの人たちにもたらすことが出来ますように、ともに祈りましょう。まさに、そのために、主はお生まれになったのですから。

高輪教会の皆さん、クリスマスおめでとうございます。そして、よいお年をお迎えください!

高輪教会 主任司祭
  マリア・フランシスコ 赤岩 聰


1 Cf.教皇フランシスコは2020年12月8日から2021年12月8日までを「ヨセフ年」とすることを宣言されました(2020年12月8日)
(2020年4月12日)
2 『教皇フランシスコ講話集1』(カトリック中央協議会、2014年、p.240.)
3 教皇フランシスコ『キリスト者の希望』(カトリック中央協議会、2018年、p.30.)
4 『教皇フランシスコ講話集5』(カトリック中央協議会、2018年、p.303.)