Vol.121(2021年09月)「聖ヨセフ年」にあたって ― 聖ヨセフの心で(赤岩 聰 師)
さて、「聖家族」とは、世界中のすべてのキリスト者が理想とする模範的な家族であると言えますが、イエスやマリアと比較すると、ヨセフがクローズアップされることが少ない傾向があることは否めません。この「聖ヨセフ年」が、聖ヨセフの生き方に学ぶ良い機会になるとよいと思います。
偉大な聖人である聖ヨセフヘの愛を深め、その執り成しを祈り、その徳と果断さに倣うように促すことを目的1とした使徒的書簡『父の心で』の中で、教皇フランシスコは、パンデミックの危機のただ中で、「どれほど多くの人が、毎日辛抱し、希望を奪い立たせ、パニックではなく共同責任の種を蒔くように心掛けていること…どれほど多くの人が祈り、犠牲をささげ、すべての人のために執り成しでいること」2かに着目して、「だれもが聖ヨセフ―目立たない人、普通で、物静かで、地味な姿の人―に、困難なときの執り成し手、支え手、導き手を見いだすはずです。聖ヨセフは、一見すると地味な、あるいは「二番手」にいる人だれもに、救いの歴史の中で、比類なき主役になる資質があることを思い出させてくれます」3を語りながら、聖ヨセフのように、日常的で、目立たない、隠れた存在に注目するように呼びかけておられます。
福音書が伝えているように、「恐れるな」という天使の言葉を信頼して、ヨセフは聖霊によって身籠もった許嫁のマリアを受け入れます4。しばしば、人生において、意味を理解できない出来事が起こりますが、私たちにありがちな最初の反応は、失望や反発です。しかし、ヨセフは、起きていることに場を空けるために自分自身の理屈を脇に置き、自分の目にどれほど不可解に映っているとしてもそれを受け入れ、その責任を引き受け、自分自身の歴史と和解させ、次の一歩を踏み出そうとするのです。5
神が助けてくださらないかのように見えることに対しても、神は見捨てているのではなく、私たち人間が計画し、考え出し、見つけるはずのものを信頼してくださっており6私たちの恐れ、もろさ、弱さを通してさえも神は働かれる7のだという確信こそが、聖ヨセフに見られる信仰のあり方なのです。
コロナ禍で、今後の見通しの立たない困難な時を過ごす私たちキリスト者一人ひとりが、老若男女を問わず、聖ヨセフの心をもって、聖ヨセフの生き方に倣って、希望を失うことなく、各々の家族の中で、また高輪教会共同体という家族の中で、更には人類共同体という家族の中で、今、この状況下で、進むべき道の方向性を見出し、それぞれに神から託された使命を誠実に果たしていくことができますように、聖ヨセフの執り成しを願って、ともに祈りましょう。
高輪教会 主任司祭
マリア・フランシスコ 赤岩 聰
マリア・フランシスコ 赤岩 聰
1 教皇フランシスコ使徒的書簡『父の心で』(カトリック中央協議会, p.31.)
(2020年4月12日)
2 同上, pp.8-9.
3 同上, p.9.
4マタイ1・18-25
5 同左, pp.17-18.
6 同左, p.22.
7 同左, p.14.