カトリック高輪教会

「ざくろざか」巻頭言バックナンバー

Vol.122(2021年12月)「主の受肉の神秘」を祝うこと(赤岩 聰 師)

「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに滴ちていた」
(ヨハネ1・14)

福音記者ヨハネは、神のみ言葉が人となられた「受肉の神秘」をこのように語っています。使徒信条の中で、「主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ」と表現されている「受肉の神秘」に関しては、様々な説明がなされています。
第ニバチカン公会議の『現代世界憲章』22項に、「…人間本性が、破壊されることなくキリストの中に受け入れられたことにより、われわれにおいても人間本性は崇高な尊厳にまで高められた。なぜなら、神の子は受肉によって、ある意味で自分をすべての人間と一致させたからである。彼は人間の手で働き、人間の知性をもって考え、人間の意志に従って行動し、人間の心をもって愛した。彼は処女(おとめ)マリアから生まれ、真にわれわれの中の一人となり、罪を除いては、すべてにおいてわれわれと同じようであった」とあるように、神の子がご自身をすべての人間と一致させた「受肉の神秘」により、人間本性の尊厳が高められたことが示されています。
或る神学者は、この「受肉の神秘」に関して、次のような解釈をしています。「受肉の神秘によって、人間の人生は、たとえそれがどのようなものであっても、神が住まわれるに値するものであることが示された。このことは、私たちに大いなる希望をもたらす」と。つまり、私たち人間の現状がどのようなものであっても、神はともにおられ、決して見放されないということが、また、だからこそ一人ひとりの人間、及びその人生は尊く価値あるものだということが、「受肉の神秘」を通して示されているというのです。
さて、昨年に引き続き今年も、新型コロナウイルス感染症の影響で今後の見通しが立たず、希望が見えにくい状況の中で、主の降誕祭を迎えます。そうした中だからこそ、主の降誕を祝う意味を再確認することは大切だと思います。聖書が伝えているのは、希望の見えにくい人々の現実の生活、苦しみや困難に満ちた人生を、他人事のように遠くから眺めているのではなく、それらをともに担うことを引き受け、この世界に希望をもたらすために、「主」は人々のただ中にお生まれになったということです。
この「主の降誕」の出来事は私たち一人ひとりに与えられた贈り物だと言えますが、私たちキリスト者は、その贈り物を受け取っで満足して終わりとしてしまってはいけないでしょう。教皇フランシスコは、神はいかなる時も、人類によい種を蒔き続けておられていること、パンデミック下の不安の中にあっても、そうした神の招きに応えて、社会のインフラを支えるごく普通の人々が、自分のいのちを差し出すことで、他の人々の生活を支えていることに希望を見い出しつつ1、誰のことも他人事にせず、真に「わたしたち」を築くように強く呼びかけています2。「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」ことを受けて、私たち自身もまた、それぞれの場で、他の人に自分を差し出す愛に生きることで、周りの人に希望をもたらしていくように招かれているのだと思います。
主の降誕を祝う私たちキリスト者が、どのような状況にあっても、決して見捨てられることなく、ともにおられる主に信頼して、厳しい状況だからこそ、自分のことだけに目を向けずに、他の人たちに向かって希望の光を伝えていくという使命を果たしていくことが出来ますように、心を合わせて祈りましょう。まさに、私たち一人ひとりがその使命を果たせるように力づけ、励ますために、主は私たちの間にお生まれになったのですから。
高輪教会の皆さん、クリスマスおめでとうこざいます。そして、よいお年をお迎えください!

高輪教会 主任司祭
  マリア・フランシスコ 赤岩 聰


1 教皇フランシスコ回勅『兄弟の皆さん』(2020年10月3日) 54項、参照
2 同左35, 43項、参照