Vol.120(2021年04月)今、主の復活を祝うこと(赤岩 聰 師)
復活祭を迎えても、世界の至る所で猛威を振るっている新型コロナウイルス感染症の拡大が収束する兆しが見えてきません。多くの人びとが自問していることでしょう。「なぜ、こんなことが起きるのだろうか?」、「この危機の中、神はどこにおられるのか?」と。信仰者である私たちキリスト者も例外ではありません。こうした問いを発すること自体は悪いことではないでしょうし、問い続けることで祈りにつながっていくのかもしれません。しかしながら、私たちキリスト者は、こうした問いだけではなく、もう一つの問いをも発するべきだと思います。それは、起きてしまった「この出来事」、起きている「この出来事」を通して、神は何を私たちに語られ、何を求めておられるのかという問いです。
さて、新型コロナウイルスの感染拡大が止まらず、今後の見通しがまったく立たず、「不安」な状況の中、主の降誕祭を迎えますが、この「不安」と主の降誕祭のイメージとが釣り合わないと思われる方がおられるかもしれません。しかしながら、聖書が伝えているのは、「不安」を抱えた人々のただ中に「主」はお生まれになったということです。
アシジの聖フランシスコにインスピレーションを受けて、兄弟愛と社会的友愛をテーマにした回勅『Fratelli tutti』の中で、教皇フランシスコはパンデミックに関する先の問いの答えとなり得るものを幾つか提示しています。
パンデミック(pandemic)とは、ギリシア語の語源

そして、感染症による危機の後に起こりうる最悪の反動は、以前にも増して消費主義の熱狂に陥ったり、新しい形の利己的な自己保護主義に陥ったりすること2であると注意を促す教皇は、「このパンデミックによって生じた苦しみ、不確かさ、恐れ、私たちの持つ限界への自覚といったものが、私たちの生活様式や人間関係、社会構造のあり方、そして何よりも、私たちが存在する意味について考え直すように招いています」3とパンデミック後の私たちが歩むべき方向性を示します。
また、オースティン・アイヴァリーという英国人記者との対談を基にした著書の中で、教皇フランシスコは、この危機に直面し、多くの人々は無力さを噛みしめ、恐れさえも持っているが、この危機から、無傷ではないにしても、より良く抜け出せる機会が存在していることに希望をおくべきだと強調しています4。
思い起こせば、不条理の極みであると言えるイエスの十字架の出来事を通して、栄光ある復活が示されました。神は悪を通しても善を引き出される方です。そして、引き出された善は、悪よりもずっと大きく、より強いものです。復活を信じる私たちはそのことをもちろん信じているわけですが、信じるだけではなく、私たちキリスト者一人ひとりはそのことをそれぞれの言葉と行いを通して周りの人たちに示すように招かれていると言えるでしょう。
主の復活の希望の光に照らされて、このパンデミックの危機から良いものを引き出していくようにとの招きに喜びをもって応えようとする私たちでありますように。それこそが、主の復活を本当の意味で祝うことに他ならないのですから。
高輪教会 主任司祭
マリア・フランシスコ 赤岩 聰
マリア・フランシスコ 赤岩 聰
1 Cf. 教皇フランシスコ『Untemps pour change』,Flammarion, 2020, pp.153-154.
(2020年4月12日)
2 Cf. 教皇フランシスコ回勅『Fratellitutti』35項
3 教皇フランシスコ回勅『Fratelitutti』33項(私訳)
4 Cf. 教皇フランシスコ『Untemps pour change』,Flammarion, 2020, pp.11-29.