カトリック高輪教会

「ざくろざか」巻頭言バックナンバー

Vol.119(2020年12月)今、主の降誕を祝うことの意味(赤岩 聰 師)

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜ぴを告げる。今月ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている親飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(ルカ2・10-12)

この言葉は、主の降誕の夜半のミサの福音箇所の中で主の天使が羊飼いたちに語ったものです。今年の降誕祭は、例年とは異なる形でお祝いすることになります。クリスチャンが少数派で、キリスト教的な価値観が浸透していない日本の社会の中で、一般の人たちが教会を訪れ、ミサに参加する大きな機会が、この主の降誕のミサ(Christmas)であります。しかし、今年は、高輪教会所属の信者の方とご家族に限定させていただきました。

さて、新型コロナウイルスの感染拡大が止まらず、今後の見通しがまったく立たず、「不安」な状況の中、主の降誕祭を迎えますが、この「不安」と主の降誕祭のイメージとが釣り合わないと思われる方がおられるかもしれません。しかしながら、聖書が伝えているのは、「不安」を抱えた人々のただ中に「主」はお生まれになったということです。

具体的には、天使のお告げを受けたマリアは、まだ婚約中であり、当時、結婚前に子を産むということは非常に困難な状況に陥ることを意味しました。しかし、マリアは「不安」を乗り越え、神を信じ、希望を持って、「お言葉どおり、この身になりますように」とそのお告げを受け入れます。また、ヨセフは、許嫁のマリアに起こった出来事を知って「不安」に陥りますが、夢に現れた天使のお告げを受け、神の約束に勇気づけられ、マリアとともに歩む使命を引き受けます。そして、当時のイスラエルは、ローマ帝国の支配下にあり、政治的な争いが絶えず、不安定さに満ちた地域でありました。そんな「不安」に満ちた状況に生きていた人々のただ中に、神の子であるイエスはお生まれになったのです。

神は私たち人間の「不安」を取り除くという道を選ばれずに、私たち人間とその「不安」を共にするという道を選ばれました。「不安」に満ちたこの世界に神の子は生まれました。「不安」と直面しながら生きる私たちとともにおられるために。このことは私たちにとって、神の愛を示す、希望のしるしだと言えるでしょう。 教皇フランシスコは、「イエスの降誕は、不安と悲観主義を乗り越える、信頼と希望の祝い」であり、「神はこの世に産声を上げ、ご自分とともに歩む力をわたしたちに与えてくださいます。神はイエスをもって、わたしたちとともに歩んでくださいます」とイエスの誕生の意味を解き明かします。そして、「この夜の信仰からわたしたちが気づかされるのは、神はいないと思えるようなところであろうとも、必ずいてくださるということです」と、どんな状況にあっても希望を見出すように招かれます。

主の降誕を祝う私たちキリスト者一人ひとりが、このような厳しい状況だからこそ、「恐れるな」という天使の言葉と、闇に光を与えてくれる救い主の誕生に力づけられ、希望をもって歩み続けることが出来ますように、そして、光の見えにくい社会の中で、私たち自身がしるしとなって、キリスト者の持つ希望の光を周りの人たちにもたらすことが出来ますように、ともに祈りましょう。まさに、そのために、主はお生まれになったのですから。

高輪教会の皆さん、クリスマスおめでとうございます。そして、よいお年をお迎えください!

高輪教会 主任司祭
  マリア・フランシスコ 赤岩 聰


1 Cf.教皇フランシスコは2020年12月8日から2021年12月8日までを「ヨセフ年」とすることを宣言されました(2020年12月8日)
(2020年4月12日)
2 『教皇フランシスコ講話集1』(カトリック中央協議会、2014年、p.240.)
3 教皇フランシスコ『キリスト者の希望』(カトリック中央協議会、2018年、p.30.)
4 『教皇フランシスコ講話集5』(カトリック中央協議会、2018年、p.303.)