カトリック高輪教会

「ざくろざか」巻頭言バックナンバー

Vol.118(2020年9月)希望を失わないために(赤岩 聰 師)

前号の「ざくろざか」の発行時点では、新型コロナウィルスの感染拡大防止のために、公開されたミサが中止されていました。6月21日からは、教区の指針に従って、聖堂内で参加者同士が適切な距離を取り、座席や手指の消毒、マスクの着用といった対策を行い、75歳以上の方や持病をお持ちの方は参加をご遠慮いただくという形でのミサが始まりましたが、以前のような形でのミサの再開に関しては見通しが立っていません。

今年の敬老の日のお祝い会は、教会に集う形で行うことができません。そこで、この「ざくろざか」の発行予定日である9月2O日の10時からのミサの中で、お祝い会の対象者の方々のために、そして、その方々と共に心を合わせてお祈りしたいと思います。また、この紙面にて、改めてお祝いの気持ちをお伝えさせていただきます。

教皇フランシスコは、「高齢者は、わたしたちより先にわたしたちの歩むこの道を歩み…… しっかりとした生活を送るために日々奮闘してきた男たちと女たち、父親であり母親です」と、年配の信仰者の方への敬意を表していますが、経験豊富な年配の信者の方々も経験されたことのない状況が今現在続いています。希望の光が見えにくい状況と言えるかもしれません。そんな試練の時と呼べる状況に対して、教皇フランシスコは語られます。「主はこの試練の時を選びの時とするよう求めておられます…•• わたしたちの決断の時です。何が重要で、何が過ぎ去るものかをえり分ける時、必要なものとそうでないものとを見分ける時です。主なるあなたに対しての、他者に対しての、生きる道を定め直す時です」と。この前代未聞の状況は、生き方の転換、福音的な生き方への新たなる招きの時と捉えているのです。

苦しい時の神頼みという表現がありますが、「今回のことを通して学んだことがあるとすれば、それは、自分で自分を救えないということです」と語る教皇は、「信仰の第一歩は、救いを必要としていることの自覚です。わたしたちは、自分の必要をすべて自分で賄えるわけではありません…… すべてを、たとえそれが悪い出来事であっても、よいものに変えてくださる―、それこそが神の力だからです。イエスは、嵐の中でもわたしたちに安らぎをもたらしてくださいます」と。救いを求めることが信仰への第一歩としながらも、希望を失わない根拠が信仰の力であるともしています。

さて、皆さんは、空を見上げて、青空が何割以上であれば「晴れ」とされるかをご存知でしょうか?答えは2割です。つまり、8割が雲に競われていても「晴れ」となるのです。意外に思われるかもしれませんが、それが「晴れ」の定義だそうです。これは、キリスト教の教義における話ではなく、分からないと叱られる某テレビ番組の情報です。このことは天候に限らず、日々の生活に関しても通じる話かもしれません。私たちの日常生活において、辛いことや困難が目につきやすく、ポジティプな要素に気づきにくくなる傾向があります。でも、ポジティプなことが少しでもあれば、それが有難い恵みであり、人生は「晴れ」という見方もあることを知れば、ものの見方が変わってくるかもしれません。

新型コロナウィルス感染症の収束が見通せない状況の中でも、希望を失わず、日々の生活の中でも一筋の光を恵みとして見出していくことができますように、そして、その光を拠り所として、日々新たにキリスト者としての福音的な歩みを進めていくことができる私たちでありますように。

高輪教会 主任司祭
  マリア・フランシスコ 赤岩 聰


1 編集作業の関係で、この原稿の執筆時は8月末です。
(2020年4月12日)
2 教皇フランシスコ使徒的勧告『愛のよろこび』(2016年3月19日)191項
3 教皇フランシスコ『パンデミック後の選択』(カトリック中央協議会,2020年,p.27・28.)
4 同上,p.54
5 同上,p.29