カトリック高輪教会

「ざくろざか」巻頭言バックナンバー

Vol.117(2020年5月)キリスト者の希望-「私の希望、キリストは復活された」(赤岩 聰 師)

「2月26日」と聞いて、何を連想されるでしょうか?1936年(昭和11年)であれば、二・二六事件であるかもしれません。それでは、2020年であれば、いかがでしょうか? 今年の「灰の水曜日」は2月25日でした。ご承知の通り、新型コロナウイルス感染症の拡大防止のために、東京教区では灰の水曜日の翌日からミサの公開が中止されました。つまり「2月26日」は公開ミサの中止が開始された日であります。この公開ミサの中止が発表された当初は、それがいつまで続くのか分かりませんでしたが、復活祭を迎えても、さらにはG.W.を終えても、継続されています。世界の様々な国に続き、日本でも、緊急事態宣言が発令され、先行きが見えず、希望というものが見えにくい状況が続いています。

復活の主日からの八日間、カトリック教会では、ミサの中でアレルヤ唱の前に、復活の続唱を歌います。その中に「私の希望、キリストは復活し」という一節があります。教皇フランシスコは復活祭メッセージの中で、この一節に触れています。

キリストの復活は、苦しみと死を飛び越えるのではなく、深淵の中に道を切り開くことによって苦しみと死を過ぎ越し、悪を善に変えるものであり、「わたしの希望、キリストは復活された!」という言葉は、どんな問題も解決する魔法の言葉ではなく、悪の根源に対する愛の勝利をもたらす神の力を示すものだと教皇は強調されます。1

この神の力に信頼を置き、希望を見出していくことがキリスト者の希望なのだと言えるでしょう。教皇フランシスコは、「神に信頼するとは、何も要求せずに―救いと助けは自分の期待するものとは違ったかたちで訪れることを受け入れつつ―神の計画に加わることです」2と、神への信頼のあり方に関して語っています。

しかしながら、新型コロナウイルス感染症の拡大が止まらない状況の中で、神に信頼を置き、希望を持ち続けることは、簡単なことではありません。「神はいつもわたしたちに寄り添っておられます。信仰と不信仰の分かれ目となる決め手は、わたしたちが御父から愛され寄り添われていること、御父から決して孤独のうちに見捨てられはしないことに気づくかどうか」3であると教皇は励ましつつ語ります。

「慰め」を意味するラテン語「con-solatio」という言葉は、「独りでいる人とともにいる」ことを表します4が、ともにおられる神に気づき、自分は独りにされていないことに気づいた時に、私たちキリスト者は「慰め」を得るのだと言えるでしょう。

でも、キリスト者は「慰め」を得て満足して終わりではありません。その「慰め」による希望を周りの人へと伝えていかなければなりません。前教皇ベネディクト十六世は、キリスト教の福音(良い知らせ)とは、あることを伝達して、知らせるだけではなく、あることを引き起こし、生活を変えるような伝達行為なのだと教えます。5つまり、福音に根ざした希望をもつ人は、生き方が変えられていく6とも言えます。

今、困難な状況下を過ごしている私たちキリスト者一人ひとりが、この状況にもかかわらず、いや、このような状況だからこそ、死を打ち負かし、悪を善に変える神に信頼しつつ、希望をもって歩み続けることが出来ますように、そして、そうした私たちの歩みを通して、光の見えにくい社会の中で、キリスト者の持つ希望を周りの人たちに示していくことが出来ますように、神の恵みを願って、ともに祈りましょう。

高輪教会 主任司祭
  マリア・フランシスコ 赤岩 聰


1 Cf. 教皇フランシスコ2020年復活祭メッセージ「Urbi et Orbi(ローマと全世界へ)」
(2020年4月12日)
2 教皇フランシスコ『キリスト者の希望』(カトリック中央協議会、2018年、p.60.)
3 同、p.119.
4 教皇ベネディクト十六世回勅『希望による救い』(2007年)、38項、参照
5 同2項、参照
6 同、参照