カトリック高輪教会

「ざくろざか」巻頭言バックナンバー

Vol.115(2019年07月)「洗礼 ― キリスト道の始まり」(赤岩 聰 師)

 「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14・6)

既にお話ししたことですが、日本語の「キリスト教」という言葉の中には、「教」という文字が入っています。「教会」という言葉も同様です。成人の方が洗礼を受ける際には入門講座を、子どもたちは初聖体や堅信を受ける前には準備の講座を、結婚するカップルは結婚準備講座を受けることもあって、キリスト教において勉強や知識が重要視される印象を持たれる方が多いかもしれません。
しかしながら、キリスト教とは本来、生き方や生き方の方向性を示すものであり、「キリスト教」と表すよりも「キリスト道」とした方が良いものだと思います。冒頭の言葉にもありますように、この「キリスト道」とは、イエス・キリストの呼びかけに応え、その生き方に倣うことでもあります。その生き方とは「神を愛し、隣人を愛する」生き方です。別の表現を使えば、「神から与えられた命を感謝のうちに大切にし、その与えられた命を自分のためにだけではなく、他の人のために使っていく」生き方であると言えます。そうした生き方のスタートが「洗礼」であると言えるでしょう。
 「洗礼は、キリスト者として生きなさいという各人への召命に火をつけ、生涯を通じて盛んにし続けます・・・実のところキリスト者の生活は、呼びかけと応答の連続によって織りなされています」1とは、教皇フランシスコの言葉ですが、「他者に無関心であったり、他者を犠牲にして、自分たちの利益を追求する傾向のある人間社会とは反対に、キリスト者の共同体は、分かち合いや連帯を促進するために個人主義を追放します。キリスト者の精神には利己主義の入り込む場所はありません。もし君の心が利己主義的なら、君はキリスト者ではない。君はただ自分の利益や自分のためになることだけを追い求めるだけの世俗的な者なのです」2と、キリスト者としての生き方を歩むように招いています。
そうは言っても、理想的なキリスト者としての生き方を全うするのはそう簡単ではありません。「キリスト者になることは、もちろん天からのたまものです」3し、「自分の力だけを信じるなら、失望したり挫折したりするのは当然でしょう」4。キリスト者としての歩みを続ける中で、自らの弱さや小ささや限界を痛感し、奮闘するわたしたちを力づけ、支え、導いておられるのは、ともにおられる主イエスなのだということです。
 「キリスト者の生活は、絶えざる闘いです・・・この闘いは実にすばらしいものです。主がわたしたちの生活の中で勝利を収めるたびに、わたしたちは喜び祝うことができるからです」5と教皇はキリスト者として悪戦苦闘していく中での喜びを語ります。
わたしたちキリスト者が、日々新たな気持ちで、日本の社会の中で「福音(的価値観)を生きる」者としてのキリスト道を歩み出していくことができますように、そして、「福音」を周りへと広げていくことで、社会の福音化のための働きをしていくことができますように、ともにおられる主の呼びかけに応えて。

高輪教会 主任司祭
  マリア・フランシスコ 赤岩 聰




1 教皇フランシスコ『ミサ・洗礼・堅信』(カトリック中央協議会、2018年、p.107.)
2 教皇フランシスコ「一般謁見講話(2019年6月26日)」(私訳)
3 教皇フランシスコ『ミサ・洗礼・堅信』(カトリック中央協議会、2018年、p.108.)
4 教皇フランシスコ『キリスト者の希望』(カトリック中央協議会、2018年、p.122.)
5 教皇フランシスコ使徒的勧告『喜びに喜べ(2018年3月19日)』158項