カトリック高輪教会

「ざくろざか」巻頭言バックナンバー一覧

<古川 正弘 神父>


2005年4月から2011年8月まで主任司祭

神田生まれで浅草育ちの江戸っ子で、自身を瞬間湯沸し器とも表していました。
みことばを大切にする神父は、叙階35周年記念に聖櫃前の祭壇用聖書を信徒に贈りました 。毎年11月3日に、その年に亡くなった方とクリプトに眠っている方のために、教会をあ げて「命日祭」を行うことを提案しました。今では多くの遺族の方にキリスト教を知って いただくよい機会となっています。
サレジオ会のフランス・ヘンドリックス神父製作による聖堂内ステンドグラスの十字架の 道行きも、古川神父から寄贈されたものです。
病に侵されても常に前向きで、最後まで祭壇に立つことを望んでいました。
   
2011年8月8日 帰天

古川正弘神父 ―走るべき道程を走りとおしー(テモテⅡ4-7) 

古川師は2005年4月に高輪教会の主任司祭として着任され、帰天までの7年間を癌と闘いながらも神のもとで力いっぱい働かれました。

2009年は高輪教会献堂50周年にあたり、江戸の殉教者記念祭も50回目。岡田大司教を迎えて札の辻でミサが行われました。同時に50周年記念誌も発行され、古川師のもとで私たちはこの節目を迎えたのでした。

「札の辻で命を捧げた殉教者を想い起こし、自らをキリストのしるしとして整えなおすこと。これこそが50年を祝い感謝すること。キリストのよきしるしとなれますように。」 ―献堂50周年記念誌の古川師の挨拶文より

古川師の思い出としてわたしたちの目に見える形で残るものは、高輪教会へプレゼントされた祭壇右奥の大きな聖書、そしてサレジオ会のフランス・ヘンドリックス師に依頼して、彼の最後の作品ともなった聖堂壁面の「十字架の道行き」のガラスアートなどがあげられます。

高輪教会で毎年11月3日に行う命日祭は、古川師の提案で始まったことです。高輪でご葬儀を挙げた方やクリプトに眠る方々の多くの遺族に、キリスト教を知っていただく良い機会となっています。

教会で七五三の祝福をするようになったのも古川師の発案です。日本古来の風習で子どもの成長を祝う七五三を、神社でなく教会でもやったら良いという考えからでした。新聞に取り上げられ、記事の中の「祈祷料は不要」という文章に大笑いされていました。

以下には私の個人的な思い出として印象に残ったことを記します。

神田生まれ浅草育ちの生粋の江戸っ子で、曲がったことが嫌いなご性格だった古川師の「瞬間湯沸かし器」と自称されるような場面に出会うこともありましたが、典礼部と入門講座の係として働いた時の思い出です。

典礼部:毎月1度行われる部会のほかに「典礼の意味や構造を一緒に勉強しよう」とテキストを使って典礼の勉強会が数回行われました。着任早々の忙しさにもかかわらず時間を割いてくださり、私たちも必死で付いていきました。

ところが高輪に赴任されて間もなく、ご自分では口内炎と思っていた症状が実は口腔癌だと診断されて手術。そして間もなく主日のミサに復帰されました。「商売道具の口が思うように動かない」とこぼされていましたが、ご自身のひそかなリハビリ努力の結果その異変にはほとんどの方が気づかれなかったようです。

誰もが認めていた古川師の福音朗読はとても心に響き、日曜日のミサが楽しみでした。後で知ったことですが、日本を代表する新劇俳優の山本安英さんが主催する「ことばの勉強会」にも、若いころ参加されていたとのことです。司祭としての大事な役割「神のみことばを伝える」を真剣に受け止められ、同時に本物志向の神父様の一面を知りました。

第二バチカン公会議後、カトリック教会では信徒が朗読奉仕を行うようになりました。聖書朗読は普通の朗読とは違います。そこで古川師に「主日ミサで朗読奉仕をする人のための指導」をお願いしました。慎重なご準備の後、聖書朗読の重要性、聖書の読み方と聖堂での朗読の実際を指導してくださいました。わたしたちはミサ典礼での聖書朗読の重要さを改めて知ることになりました。

入門講座:講座のお世話係は信徒の役割でしたが、古川師は「入門講座に信者さんは出てこないでほしい。難しい質問などで受講者を委縮させるから」と言われました。でも私たちは静かにその仕事を続けました。そして1年ほど経ったころ古川師は「同席してくれる信徒の存在はありがたい。助かります。」と言われたのです。ご自身の考えの変化をはっきり伝えられるその謙虚さに驚き、それはまた江戸っ子的心意気のようにも感じられました。

入門講座ではテキストのほかに、永年蓄積されたご自分の膨大な資料の中からその週の講義に合うものを選びコピーして使いました。茨城のり子(詩人)、サン・テクジュベリ(星の王子様他)、レオ・レオニの絵本、谷川俊太郎の詩や文章などなどです。こうして私たち世話係は入門講座の方々とともに、よりキリストを近く感じるようになり、硬くなった頭と心をやわらかく更新するという大きな恵みをいただきました。

古川師は2010年4月に膵臓への癌の転移が見つかり手術。その後の闘病生活中も司祭職を休まず働かれていましたが、1年後の2011年8月8日に67歳で神様のもとに帰られました。私たちは古川師と出会って7年間、特に最後の1年は命を削るように力を振り絞って働かれる姿を目の当たりにしました。最後まで入門講座の受講者のことを気遣われていたのが思い出されます。

古川神父様、あなたが天国へ帰られるまでの最後の7年間高輪教会の私たちとともに居てくださったことは素晴らしい恵みでした。ありがとうございました。

(長冨 由紀子 様)



<ハクシャ神父><ボルジャー神父>


ハクシャ神父

1994年4月から2000年8月まで主任司祭

ハクシャ神父は主任司祭として豊四季教会から、ボルジャー神父は助任司祭として清瀬教会から、1994年に赴任しました。二人ともケリー神父と同じスカボロ会宣教師です。 ハクシャ神父は聖堂で一人静かに祈りを捧げ、主日の福音を黙想する姿がよく見られました。日曜学校の合宿では、朝ごはんに出たヤクルトをご飯にかけて食べて、「これは、美味しいよ!」と子供達を驚かせたそうです。

肝炎が悪化したため2000年8月カナダに帰国、翌年5月14日帰天

ボルジャー神父

1994年4月から1997年2月まで助任司祭

ボルジャー神父はハクシャ神父の良きパートナーでした。穏やかで慈愛深く、多くの人が心を癒されました。教会に来られない信徒に、いつも喜んでご聖体をもって行きました。もっとも愛した福音の一節は、「いちばん先になりたい者は、すべての者の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」でした。

1997年2月15日 高輪教会在任中に帰天

ハクシャ神父様・ボルジャー神父様の思い出

カトリック高輪教会は1959年に、スカボロ外国宣教会によって献堂されました。そして新しい地に信徒が集う場を開くという外国宣教会の一つの使命を果たした後、1979年東京教区に移管されました。

その後1994年に、同宣教会のフランシス・ハクシャ神父が豊四季教会から主任司祭として、ジョン・ボルジャー神父が清瀬教会から助任司祭として着任されました。
平日に聖堂を訪れると、ハクシャ神父様は祭壇右前の聖櫃前で、ボルジャー神父様は最後尾のベンチで祈っておられる姿を最初に思い出します。

両司祭共、ミサ典礼のこと、聖書講座・入門講座や結婚講座等、教会を訪れる方々への霊的指導に専念され、教会でミサに与かれないご病人や高齢者をしばしば訪問されました。一方で、教会の運営や活動等への信徒の積極的な参加を促しました。当時東京教区で始まった「聖体奉仕」「集会司式」の講習会に信徒が参加することを勧め、奉仕者を育て、すぐに信徒の聖体奉仕は始まりました。その数年後、ハクシャ神父様が初金のミサの日に急病の時、集会司式も1回行われました。

お二人とも質素な生活を旨とされていらっしゃいました。当時,信徒会館の3階の居室には、騒音と空気汚染の防止のために開閉できない窓があり、エアコンが完備されていましたが、暑い夏にも極力使用せずに過ごされていたことを後々知りました。エレベーターが設置されていないことは当時から信徒の間では問題になっていましたが、神父様方は、階段の上り下りの負担について一切おっしゃいませんでした。特に心臓の悪かったボルジャー神父様はお辛かったことと思います。

ボルジャー神父様は、1997年2月に帰天されましたが、その直前までご自分のことはさておき、近くのご病人のところに聖体を授けに行かれないことを非常に気にかけていらっしゃいました。

ハクシャ神父様は体調を崩されて、2000年の8月にカナダに帰国されました。

鉄とコンクリートがむき出されて寒々しく感じられた聖堂が、お二人の神父様が去られた後、温かい祈りの場となっていたことに気付きました。

私個人としては、苦しかった時に寄り添っていただいた両司祭を今でも忘れられず、そのうしろ姿からキリスト者として学ばせていただいたことに感謝しています。

ボルジャー神父様が帰天カードに選ばれた みことば

「いちばん先になりたい者は
すべての後になり,
すべての人に仕える者になりなさい。」  (マルコ 9:35)   

(2021年7月 藤田 洋子様)

   

ボルジャー神父様の思い出

ボルジャー神父様の思い出話がないかご相談を受けたのを機に、久しぶりにクリプトB室を訪ねハクシャ神父様とボルジャー神父様にお祈りを捧げて参りました。ボルジャー神父様が1997年2月に帰天されてから4半世紀が経とうとしています。途切れがちになっていた私の記憶を神父様が後押ししてくださったのでしょう。いくつかの光景が鮮やかによみがえってきました。

岩﨑神父様の後任として、1994年の4月に別の教会から主任、助任司祭として高輪教会に着任された2人の神父様。大きな声で話し、笑うハクシャ神父様をお支えするように、その横でいつもにこやかに微笑んでいらしたボルジャー神父様。私は眼鏡の奥の優しい慈愛に満ちたまなざしが大好きでした。

受洗してまだ数年しかたっていなかった私は、ボルジャー神父様の聖書講座を受講しておりました。毎週コピーしたたくさんのプリントを用意してくださいましたが、いつも袖口がほつれボロボロになったセーターを着ていらっしゃる神父様から、「清貧」の中で生き、宣教司牧に力を注いでおられるたたずまいが神に通ずるように思えてなりませんでした。

専門的に学んだ経験のない私ですが、ご縁あってオルガニストの一員に加えていただいていました。駆け出しでまだまだ余裕のなかった私が、なんとかミサで弾き終えた時に、何度となく、静かに歩み寄って「とても良かったですよ」と励ましてくださったボルジャー神父様。その温かいお心遣いは緊張していた私の心の灯となり豊かに癒されたことを懐かしく思い出しております。

心臓のご病気で入院された、と伺い広尾の日赤医療センターにお見舞いに行った時のこと。ベッドに横たわり昏々と眠っておられる神父様の弱りはてたお姿に接し、私は耐えられず病室から飛び出してしまいました。病室で居合わせた信徒の方に励まされ、少し落ち着いてから戻り、その方と共に長く伸びた足の爪を切って差し上げ、センターを後にしました。

それからしばらくしてボルジャー神父様は天に召されました。高輪にいらしてたった3年の短い期間でしたが、その出会いに感謝し、いただいた数々のお恵み、優しいお心遣いは私にとって忘れられない思い出となっております。

(2021年7月 澤本 知勢子様)


   

ハクシャ神父様・ボルジャー神父様の思い出

思い出すのは目尻の下がった優しいお顔。ハクシャ神父様はいつも笑顔で、子供達やリーダーの活動を見守ってくださいました。

高輪教会に赴任された時、既にお歳を召しておられたのにも関わらず、日曜学校サマーキャンプに同行してくださいました。

山登りなどハードな活動の間は宿で休養されていましたが、あれ?お姿が見えないなと思うと、自然の中を優雅に散策なさったり、時にはお一人で山の喫茶店でコーヒーを楽しんでおられたことも!そのお姿は微笑ましく、猛暑の中でご一緒出来ただけでも感謝の気持ちでいっぱいでした。

せっかくの野外活動だから「山の中で祈りを捧げましょう!」と自然とふれあいながらのミサをすすめてくださいました。鳥や虫の声と共に神父様の優しいお声が、とても懐かしく感じられます。

野球がお好きで、大リーグ談義に花を咲かせたリーダーも!キャンプファイヤーや肝試しなどのイベントでは、神父様の表情は少し硬く、恐る恐るご覧になっておられました。私達がつい盛り上がってしまうと「花火とてもあぶな~い」「リーダーのおばけ、怖すぎ~る~」とハクシャ神父様の独特な話し方で注意されたことなど、今では素敵な思い出です。

私達が「忙しくて落ち着いて祈る時間がありません」と言うと「大丈夫で~す。あなた達の活動は祈りで~す。神様は見ておられま~す。」と優しい言葉で包み、学生リーダー達にいつも安らぎを与えてくださいました。日本語がどことなくぎこちないところもまた、ハクシャ神父様の愛すべきお人柄の一つだと思います。

子供達のことが大好きだった神父様、「バザーで一緒にビンゴを楽しんでくれた姿が印象的です」と、当時子供だった方からコメントを貰いました。

ボルジャー神父様とは粘土制作で「神の小羊」を一緒に作ったことを思い出します。大変物静かでそっと子供達を見守ってくださっていました。

外国人の神父様お二人が日本の子供達や若者に、たくさんのお祈りと愛を与えてくださいました。素敵な思い出を本当にありがとうございました。

(2021年7月 川原恵理子様(旧姓 花田))
日曜学校リーダー(1990年〜2000年)



敬老会での ボルジャー神父(左)とハクシャ神父



<岩﨑 尚 神父>


1984年4月から1994年4月まで主任司祭

40歳になったばかりで赴任した意気軒昂な岩﨑神父は、過密スケジュールをこなして中高生会や日曜学校にも力を注ぎ、若者の育成に尽くしました。
老朽化した木造の高輪教会を新築するという使命を託されていたため、1985年に建築委員会を発足し、その計画は着々と進められました。途中体の無理がたたって、急性肝炎で入院することもありましたが、1989年3月19日に白柳大司教を迎えて献堂式を行いました。
   
2006年2月14日 帰天

岩﨑師の思い出

私が高輪教会に通い始めたのは1983年の春で、その頃は岩橋神父が主任司祭でした。とてもフレンドリーかつ活動的な神父様を中心に、高輪教会は一つの家族の様な、とても活気あふれる集まりでしたが、就職で東京に出てきたばかりの私は、その集まりの輪に入ることに何となく気おくれしていました。

そんな中、翌1984年の春に岩﨑神父が着任されました。前任の岩橋師と同じく大変気さくな方でしたが、どこか硬派な雰囲気があって、キャラクター的にはかなり違った印象でした。
当時神父様は40歳になられたばかりで、気力・体力共に充実した年代とは言え、それまで助任司祭と助祭を含めた3人体制だったのが、岩﨑師一人の体制となり、御ミサはもちろん、聖書勉強会、座禅の会、教会学校などの活動、さらには年間200回もの結婚式の司式をこなすなど、このエネルギーはいったいどこから来るのかと不思議に思うほどでした。

高輪に来られて最初の頃だったと思いますが、古い木造の日本家屋だった司祭館1階の「マリアンナの部屋」で、信徒が自由に参加して、お酒などを飲みながら語り合う会を、毎週続けておられたことがありました。
私もその会に、何度も参加したおかげで、親しく話せる方が増えましたし、高輪教会に少しずつ溶け込むことができる様になりました。

その頃日曜学校の「リーダー会」には、中高生会を卒業した若者が多く集まっていて、シスターたちと一緒に活発に活動していましたが、「青年会」の方は私の様な「移動信徒」が主体で、それほど活動的ではありませんでした。岩﨑師はこれをご覧になって、もっと活性化させる必要性を感じられたのでしょう、聖書勉強会に通っている女性に青年会への参加を勧めて下さったりして、男ばかりで少し暗めだった青年会が、だいぶ明るくなった記憶があります。
その後青年会の活動は活発になり、ある時は壮年会の皆さんとソフトボールの対抗戦をしたり、北品川の焼鳥屋さんに飲みに行ったり、泊まりがけで旅行に行ったりと、忘れられない楽しい思い出が数多くあります。
岩﨑師は、こうした青年会への働きかけにとどまらず、ミサには来ても教会の中で「居場所」がないような方に声をかけ、機会を見つけて何らかの役割を与え、教会活動に関わるきっかけを作る努力もされていました。こうして高輪教会のメンバーの輪が更に広がり、それまで以上に共同体としての一体感が強まったような気がします。これは、岩﨑師の大きなミッションの一つであった「教会の建替え」を実現する上でも大きな支えになったと思います。

少し話は変わりますが、岩﨑師はとても音楽好きだったそうで、若い頃はオーケストラのコンサート等にもよく通われていたとのこと。しかし、求道者の道に入るに当たって、そのような楽しみも含めて、全て捨て去ったそうです。ただし、唯一手元に残したのがオーディオ装置で、ある年の四旬節の頃に、この装置を木造の旧聖堂に持ち込んで、バッハの「マタイ受難曲」を聴く会を開かれたことがありました。私もクラシック音楽が好きでしたが、この曲はほとんど聴いたことがなく、最初のうちは暗くて難解な曲だなと思いながら聴いていました。しかし、耳馴染みのあるコラールの旋律(黒い表紙のカトリック聖歌集171番「いばらのかむり」のメロディー)が出てきて少し親しみを感じ、キリストの受難の場面を想像しながら聴き進むうちに、バッハの劇的な音楽を通してキリストの受難を追体験するという、貴重な機会を得ることができました。

岩﨑師が天に召される1年ほど前に、主任司祭をされていた五井教会を訪ねたことがありました。その頃はかなり体力も落ちていて、祭壇を上るのもつらそうなご様子でしたが、お祈りをとても大切にされていた神父様でしたので、今こうして静かに祈る時間が与えられたことを素直に喜んでおられる姿が心に残っています。

岩﨑師が帰天されたのは2006年2月14日のバレンタインデーでした。青年会の関わりの中で、岩﨑師のお導きによって結婚のお恵みを頂いた私たち夫婦にとっては、この日に帰天されたことが単なる偶然とは思えませんでした。
我が家のバレンタインデーは、岩﨑師のことを思い出し、多くのお恵みを頂いたことを感謝しながら過ごす日になっています。

(吉田 竜太 様)



<ジェラルド・ケリー神父>


1959年から1970年まで主任司祭

カナダに本部を置くスカボロ外国宣教会で叙階され、1949年来日して、高輪教会初代主任司祭として11年間高輪の地で宣教しました。 1959年11月22日に高輪教会が産声をあげますが、来日からの10年間を振り返り、「10年にわたる私達の希望と祈りとが(一時は絶望と思われたことさえありましたが)神の摂理によってここに実を結ぶに至ったのであります」と小冊子に記しています。さらに「高輪教会に誇るに足るものがあるとすれば、それは江戸の殉教者の反映に過ぎないのであります」と高輪教会の使命をはっきりと示しています。神父を知る人は、とてもウィットに富んだ近づきやすい方で、老若男女貧富の差別なく誰にでも温かく接してくださったと語っています。
1981年12月14日 58歳の誕生日翌日に帰天

ケリー神父様に導かれて

森村学園の直ぐ手前の持田邸が教会になったと言う事で、偵察に出掛けたのが1959年の11月だった。

教会の石垣の下から新しく出来上がった教会とキリスト像を見上げている時に一人の背の高い、一見怖そうに見えた外国人神父が「シンジャサン デスカ?」と声をかけてくださったのが教会との最初の出会いでした。

僕はその時は「No!違います」と答えると神父様は「明日この教会の献堂式があります。是非きて下さい」流暢な日本語でお誘いを受け、次の日に幼友達のもう一人の悪餓鬼と恐る恐る教会を訪ね一番後ろの席に陣取ったのを覚えています。

ミサの最中は祈りの言葉も知らず、立ったり、座ったり、跪いたりするタイミングが全く合わず、一人で恥ずかしい思いになっていました。 幼友達は途中でいたたまれず逃げ出して帰ってしまいました。

僕は途中から逃げ出す勇気も無くて結局最後まで居たのです。 式次第がようやく終ってさあー逃げ出そう、帰ろうと思って居た処を前日お会いした神父様が飛んできて「良くいらっしゃった。これから集会所でパーティがありますからいらっしゃい」と言って集会所までエスコートしてくださいました。

それにしても、献堂式と言う重要な催しものの最中で、多くの教会関係者や大司教様がいらしているにもかかわらず、僕を見つけて集会室まで連れて行ってくださいましたケリー神父様には、父親以上の親近感を味わったものでした。

(堀川 忠 様)



<ミカエル・カックス神父>


1970年から1979年まで主任司祭

1923年にカナダで生まれ、1951年秋に来日以来50年間日本で宣教活動に専念し、ケリー神父の後任の主任司祭となりました。 優しい性格で謙虚と質素を貫いた司祭の日常生活は、「生まれながらの神父様」と言われていました。日本語がとても上手で人の話によく耳を傾け、驚くほどの記憶力の持ち主でした。
2003年4月9日 カナダで帰天

カックス神父様の思い出

日本語が大変堪能な神父様でした。
私が知る歴代のスカボロ会の神父様の中でも傑出していたと思います。

特に印象的だったことの一つは、20分ほどの日本語でのお説教の原稿が全部ローマ字で書かれていて、正確な日本語だったこと。
もう一つは、当時、旧漢字で書かれていたミサ典書の日本語を全くつっかえることなくお読みになることでした。
中学生になってミサ答えを始めた私ですら読めなかった旧漢字の「體」はカックス神父様から教わったものでした。

またとっても穏やかなでゆったりした神父様でした。
前任のケリー神父様時代にミサ答えを始めた私は、ミサの始めに司祭と侍者とで唱えるラテン語のお祈り "階段祈祷" を早口で唱える癖がついていました。
ケリー神父様が気が短い方で、階段祈祷はいつも超特急で唱えねばならなかったからでした。 カックス神父様は階段祈祷もゆっくりと、且つはっきりと唱えられ、「ゆっくりでいいですよ」と優しく諭してくださいました。

私が所属していた青年会では様々な活動をしていましたが、当時三田にあったセントメリースクールのテニスコートを借りて時々テニスを楽しみました。
カックス神父様もお誘いしてご一緒した時、神父様は黒のスータンのままでテニスをされ、大きなおなかにもかかわらずドロップショットに猛ダッシュして打ち返されるのでびっくりすると、「修道院ではテニスのチャンピオンでした。あの頃はずっとスリムでしたよ。」と悪戯っぽくお笑いになったのを今でもよく覚えています。

神父様が休暇を兼ねてカナダに一時帰国をされた時、青年会で企画をした送別会で、「I Left My Heart in San Fransisco」を、神父様の故郷であるNova Scotiaに変えて「I Left My Heart in Nova Scotia」として歌ったらとっても喜んでくださいました。

中学、高校、大学時代の私の教会での活動の全てをカックス神父様が温かく支えてくださいました。
私にとってはまさに教会における父のような存在でした。

(岡田 洋二 様)